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イブニッツはデカルト及びスピノーザの思想を用ゐたり。)而して斯くある所以は各モナドの活動に制限あり、其れの沮碍せらるゝところあればなり。即ちライブニッツは各モナドには活動の方面と其の沮碍さるゝ方面とありと見、而して彼れはアリストテレース及びスコラ學者の用語を用ゐて活動の方面をエンテレキア(entelechia )、沮碍の方面をマテリア、プリーマ(materia prima )と名つけたり。謂はゆるモナドの發達は即ち沮碍の方面〻の少なくなりて即ち活動の方面の進み行くの謂ひなり。されどモナドには一として純粹に活動的方面のみのもの(purus actus)無し。純なる活動にして聊かの制限なく些の沮碍なきものは唯だ神あるのみ。故にライブニッツは神を以て一切のモナドの頂上に位するものとし、或は之れを最高のモナドとも名づけたり。活動の制限されたるは即ち不明瞭なる混雜せる觀念を浮かべ居れる狀態なり、神に於いては一として不明瞭なる混雜せる觀念なし。以上ライブニッツの所說に於いて如何にアリストテレース風の思想及びデカルト、スピノーザ風の思想の相混和されたるかを見よ。

《モナドの存在と神、謂はゆる理由則。》〔七〕各モナドが同一の宇宙を縮寫するは猶ほ幾多の人が各〻自己の立ち塲よ