コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/194

提供:Wikisource
このページは校正済みです

《モナド論つづき、モナドの想念作用。》〔六〕上に各モナドは全體を表現すと云へり、而して謂ふところ表現はライブニッツに取りては想念すといふと同一義となる。篕し一モナドが全宇宙を表現するは多なるものが一に於いて表はさるゝ、或は外なるものが內に含まるゝの謂ひにして是れ即ち想念の作用に外ならざれば也。恰も吾人が事物を想念すといふは我が心の中に多なるものを表現するの謂ひなる如く各モナドが全宇宙を表現する活動は想念の活動なり。斯くの如く見るには彼れの所謂類推律が大に彼れを助くる所ありしなり。盖しモナドの活動の、內なる狀態は何によりて知り得べきかと云ふに先づ吾人の心の實驗する所より推して知るべき也。吾人の心に實驗する所を出立點として類推すべく、而して其の心は全宇宙を想念することに於いて小宇宙と見らるべきものなれば、亦之れに準じて一切のモナドを考ふべし。(かゝる思想の順序はデカルトが自識を以て出立點としたると相比することを得。)而してモナドの活動即ち想念は其の明らかなるの程度に於いて無數の差等あり。其の所謂發達は活動の進むなり、而して活動の進むは不明瞭なる觀念を想ひ浮かぶる狀態より明瞭なる觀念を想ひ浮かぶる狀態に至るの謂ひなり。(こゝにはラ