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年に『ヂュルナル、デ、サヷン』("Journal de Savan")に揭げし『自然界と本體相互の關係とに關する新說』("Système Nouveau de la Nature et de la Communication des Substances")なり。其の外彼れの著述の哲學上主要なるはロックが有名なる著書に對して作りたる、而して其の成るに先きだちてロックの逝きしが爲め遂に世に公にせざりし"Nouveaux Essais sur l'Entendement Humain"(是れ其の著述の最も大なるもの)、及び普漏士王妃の求めに應じて作り一千七百十年に至りて世に公にせし "Théodicée" 其の他彼れが一千七百十三年より同十四年にかけて維納府に在りし時オイゲン公の爲めにものせる其の哲學原理の摘要とも見るべき書にして後に『モナド論』("Monadologie")の名を以て世に知られたるもの及び彼れの死後二年を經て世に公にせられし "Principes de la Nature et de la Grâce" 等なり。
《ライブニッツ哲學の主要なる動機、其の活動說、多元說。》〔三〕ライブニッツが哲學に於ける主要なる動機の一はスピノーザが萬有神說に現はれたる結論を避けむとするに在り。彼れはスピノーザの哲學を以てデカルト哲學の論理的結論なりとし、また其の結論が萬有神說となり了したるは其の吾人の承認す可からざる見地なることを正に表白したるものなりと見、而して