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其の如き結論を免れむにはデカルト哲學の根本思想に於いて改むべき所ありと考へたり。故にライブニッツは常にデカルトの哲學は眞正なる哲學の玄關たるに過ぎずと云へりき。次ぎに彼れが哲學の他の動機と見るべきは、デカルト、ホッブス及びスピノーザ等が皆一致して取り求たりし所のもの即ち自然界をば機械的に說明することに對して目的觀をも之れと共に攝取せむとするに在りき、詳しく云へば、ライブニッツは自然界を飽くまでも機械的に說明せむとする當時の自然科學の精神に對しては本より異論を揷む所ありしに非ず、唯だ彼れはかゝる機械說を容しながら尙ほ其の根本に於いて之れと目的觀とを調和せむと力めたるなり。件の二動機を以て觀ればライブニッツが哲學に於ける根本思想の由來は略〻了解せらるべし。而して彼れの哲學は固より大體より見て究理派の流れに屬するもの、換言すれば、彼れは吾人の究理心を以て攷究する所是れ取りも直さず實在の相なりといふ見地に立ちしなり。然れどもデカルトよりスピノーザに至りて竟に萬有神說となれる思想に反抗したると又自然の現象を唯だ機械的にのみ說明せむとする科學的傾向に反抗したるとの故を以て彼れの哲學は究理學派の