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り、其の他一切の自然科學一として彼れの涉獵せざるもの無かりき。
ライブニッツは閑散に其の晚年を送りぬ。彼れは自ら云へる如く多くの業務に鞅掌せしが爲めに娶るには餘りに遲きに至るまで家を成す期を得ず遂に獨身にして其の生涯を終へたり。彼れの晚年には其の曾て恩寵を受けし宮廷の覺え目出度からざるに至れりとおぼしく、また彼れが寺院に詣づることを力めざりしより宗敎家等は彼れが信仰の正しきかを疑ひ、其の名を俗語にもぢりてレーヹニックス(Lövenix 不信仰者の義)と稱せり。一千七百十六年彼れの歿せる時には其の柩を送れるもの甚だ少なく官人の招かれたる者とては一人も會葬せざりきといふ。
ライブニッツには其の學說全體を纏めたる著作なし、唯だ種々の塲合に應じて其が學說の種々の部分を發表せる著書又は論文等の遺存するあるのみ。また彼れは廣く當時の學者と交はり書信により其の意見を交換せるを以て其の哲學を見むには此等の書翰は甚だ肝要なる者なり。彼れが時々公にしたりし論文の數多き中に就き、其の哲學の大體の組織の現はれたるものの最も早きは、一千六百八十五年に出版せし『純理哲學小論』("Petit Discours de Métaphysique")及び一千六百九十五