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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/170

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なり。彼れが神に廣がり及び念ひといふ性ありと云ふは是れ正さしく彼れに或種類の限定を與ふるにはあらざるか。其等の無數の性及び樣と唯一無限永恒なる本體とは如何に相和すべきものなるか。此の點スピノーザの哲學に於いて最も說明を要する所なり。エルドマンはスピノーザの意を解して以爲へらく、彼れが本體に幾多の性あるが如くにいふは是れ其の所謂差別見に屬するものの謂ひにして本體其のものに斯かる差別ありと云ふにはあらず、換言すれば、性と云ひ樣と云ひ凡べて差別に屬するものは畢竟吾人の心の主觀的の見樣に外ならずといふ意なりと。スピノーザ自ら性のたるを定義せる所に曰ふ、性は本體の本質を成すものとして吾人の知力が本體に就いて認むる所のものなりと。エルドマンは此の定義の語中の吾人の知力といふ言葉に重きを置きて解せるなり。されど又スピノーザは件の定義の中に本體の本質を成すものとしてといふ語を挾み置けるを見れば彼れが所謂性を以て唯だ吾人の主觀的の見樣なりと爲すはいかがはし。且つスピノーザが本體の性及び樣といへるものを取りて全く唯だ吾人の主觀的の見樣に屬すべきものと爲すは彼れが哲學全體の趣に合せざるが如し。