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但しエルドマンが委しく證明したる如く、スピノーザは吾人が事物の差別相を見るをば其の謂ふイマギナシオに歸せり、然れども惟ふに彼れの所謂イマギナシオに事物の差別相を歸すると、其の所謂本體の性を以て本體其の物に存在するものとして唯だ吾人の主觀的の見樣に非ずとするとは必ずしも相和せざるものに非ず。彼れがイマギナシオに屬するものとしたる差別の相は是れ個々物をば全く斷ち離して獨立のものと見る見方なり、本體其の物の永恒の性より必然に來たれるものとして見るに非ず。故にスピノーザに取りては假令本體永恒の相より見るも性及び樣の差別相は全く滅するものに非ず、唯だ其の差別相が個々獨立の者として自存すといふ見方の滅するのみ、本體より必然に來たるものとしては性及び樣の差別相は全く妄見にあらず。彼れが謂ふ無限樣(即ち動、靜)及び無限智の如きは全く差別を呈せざるものに非ずして而かも之れを以て全く吾人の妄見に屬するものとは云ふ可からず、本體圓滿の相を發現したるものとしては此等はまさしく眞實のものなり。一言にして云へば、本體永恒の相よりする見方に於いては一と多とは相離れざるもの、其の關係は差別即平等、平等即差別なりと說かざるを