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ノーザよりも正統にデカルト學派の立脚地に立てりと云はるべきマルブランシに於いても見ることを得れど、スピノーザに於いてはマルブランシよりも一層明らかなるものとして現はれたり。而して此等の相異なる要素は全く融和せられたりとまでは云ふを得ざれども、兎に角それらが一種の結合を成せる所は是れスピノーザが哲學に於いて特殊の面目を成せる所なりと云ふべし。スピノーザの哲學に於いてはデカルト及びホッブスの共に取りたる機械說亦一の主要なる要素として存在す。而して此の機械說の要素は彼れに於いては凡べての物の實在を一本體に歸する萬有神說と相結合せり。

スピノーザの哲學は其の根本的觀念としたる所を大膽に論理的に推究して其の當さに到るべき所に到りたるものと見ゆれど、また其が種々の要素の連結せる所に於いては明らかに論理的關係の看取し得べからざる點あり。彼れの哲學組織は一見恰も刻み上げたる水晶體の如くなれども其の中には尙ほ說明を要する難點と見らるべきものの存在すること啻だ一二に止まらず。第一には先きにも云へる如く、彼れが主知論の要素と自然論の要素との調和成就せず、故に彼れが其の