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取りも直さず意志と名づけらるゝもの也、而して吾人が善しと云ひ又惡しと云ふは畢竟一事物が吾人の意志を滿足せしむるか否かの別に存す、各人の欲望する所を離れて善きもの無くまた惡しきもの無し。故に精密なる意味にて云へば、善きものといふは何人かに取りて善きものなり、何人かの欲望することより離れて絕對に善きといふは意味なき言葉なり。尙ほ少しく語を換へて云へば、善惡は凡べて比較によりて生ずるものにして一物が他物よりも吾人の欲求を充たすに適する時にそれだけ其の物は善き也。吾人は我が性の根本の求めに從ひて吾が理想的狀態を描き出だす、即ち吾人各〻が他に抑壓制限されずして自ら存在し自ら十分に伸び居れる狀態を描き出だす、此の觀念(idea hominis, tanquam naturae humanae exemplar)を模範標準として之れに到達せむと力め、而してそれに到るに利あるものを善と呼び害あるものを惡といふ。斯く善惡の區別は畢竟ずるに事物の不完全なる狀態に於ける比較に生ずるものなるが故に本體其の物の永恒の相より見れば本より善惡無差別なり。美といひ醜といふも亦、同じく吾人が事物を差別する所に生ずる比較上の觀念に外ならず。