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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/155

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ふ情の生ずるが如し。而して一物を以て吾人に喜びを與ふる理由と見る(換言すれば喜びの原因を思ひ浮かぶる觀念が喜びの情に結ばる)時にはこゝにといふ情起こり、また悲みの情と其の原因を思ひ浮かぶる觀念との結合する時には茲に憎惡といふ情起こる、再言すれば、愛憎の情は吾人に喜び又は悲みを與ふる原因として一事物を思ひ浮かぶる時に其の事物に對して生じ來たる情なり。かくしてスピノーザが吾人の性に於ける根本的欲求を基として一切の情緖の起こり來たる所以を說明せる所はデカルトが爲したる情の說明に比して一層巧みに一層整ひたる所ありと謂ふべし。

情緖は斯くして生起するものなり、即ち其は畢竟ずるに吾人の自動的狀態と所動的狀態との釣り合ひによりて生ずるものなるが故に全く所動の方面なき、換言すれば、獨立自存、他に制限さるゝ所なき者に於いては情の存すべき理なし。故に無限智には情ある可からず、又本體其の者即ち神に於いては喜怒哀樂の情ありと云ふ可からざること固よりなり。

スピノーザは更に以爲へらく、吾人の情に於ける根本的欲求即ち自衞の求め是れ