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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/137

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が自身の原因なるが故に他にせしめらるゝ所なきもの即ち自由なるもの也。故に之れを自由原因と名づけ得べし。スピノーザに取りては內よりする(自性其のものが爾かあらしむる)必然是れ即ち自由なり。

此くの如く本體は、自存、無限、唯一、自由、永恒のものなるが故に吾人はそれに就きて否定を意味する形容を下すこと能はず、何となれば否定は實在を限るものなれば也。本體に就きて吾人は唯だ純然たる存在を言定し得るのみ、其を限定して名づくべき言葉なし、限定は即ち否定なれば也。故に一言にして云へば、本體は自足圓滿完了したる實在と謂ふべきもの也。

《本體即ち神也、神は萬物の內在的原因也。》〔四〕かくの如く本體は自足圓滿の實在にして凡べての物は之れによりて爾かあらしめらるゝなればスピノーザは之れを萬物の原因と見、而して之れを神と名づけたり。故に彼れの謂ふ神は通常歐洲の神學者等の謂ふ神とは異にして右云へる本體是れ即ち神なり(deus sive substantia)。神を以て萬物の原因なりといふも時間上前後をなして作爲する底の原因に非ず。盖しスピノ一ザは原因を說くに於いても數學的に、換言すれば、論理的に考へたるなり、即ち其の觀念より必然に考