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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/136

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のものなり。また他に依らざるもの即ち其の存在の根據が自己以外に無きものなるが故に其を自因causa sui)と名づくべし。スピノーザは自因の何たるかを說明して曰はく、自因とは其の本性が其の存在を含める者、換言すれば、其の性が其のものの存在を必然ならしむる者を謂ふ、旣にアンセルムスに存し又デカルトにも傳はりたる「存在すとより外に考ふ可からざるもの」といふ觀念即ち是れを謂へるなり。其は凡べての物の實在を成すものなれば之れを存在せぬものとは考ふ可からず、又其の存在の原因は自らに在るがゆゑに其は必然に存在するもの也と。此の故にスピノーザに取りては必然と云ふは其れ自身に存在すと云ふと同意義なり、又永恒といふと同意義なり。謂ふところ永恒は時間上の期限を附し難き連續を意味するに非ずして其の物が其れ自身の原因として必然に常住するを謂ふ。故に以爲へらく、本體上より觀來たるは事物を時間上前後を爲すものとせず之れを觀るに永恒常住の相(sub specie aeteruitatis)に於いてする也。凡べての物は本體に於いては皆同時に永恒常住のものとして存在す、換言すれば、時間の連續を脫したる所に於いて其の物の本體上の眞理を發見せざる可からずと。斯く本體は自身