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體は彼れに取りては凡べての物の爾る所以の基本の謂ひなれば也。彼れ曰はく、「我が所謂本體は其れ自身にて存在し其れ自身によりて考へらるゝものを意味す」と。されば彼れの謂ふ本體は他に依らずして存在し又他に依らずして考へ得べきものの謂ひ也、即ち凡べての物の實在すと云はるゝ所以を指す也。故に彼れが所謂本體は其の實在することの證明を要すべき者に非ず、語を換ふれば、實在そのものを指せるなり。凡べての物の實に在りと云はるゝは何の處に在るか。畢竟ずるに實に在るものは其れ自身に存在し其れ自身に考へらるゝ者ならざる可からず。他に依りて在るものは其れ自身に實在を有せず之れを實在せしむる所以の眞の實在者なかる可からず。かく見てスピノーザは其の實在者を本體と名づけたる也。是れ彼れが其の謂ふ本體をば自明なる觀念として出立せし所以なり。

スピノーザ說いて曰はく、本體は其れ自身に存在するものなるが故に他によりて限らるゝ所なし、即ち無限のものなり、若し他によりて限らるゝ所あらば此の所に於いて依他のものにして自存のものと云ふ可からざれば也。無限なるが故に其はまた唯一なり、多中の一にあらずして凡べての實在を成すといふ意味にて唯一