コンテンツにスキップ

Page:Onishihakushizenshu04.djvu/121

提供:Wikisource
このページは校正済みです

ろのものにしてジューランクスの謂ふこゝろは我れの爲すは我が意識を以て爲すことならざる可からず、故に我れの爲す道を知らざることに於いて我れは其の原因たる能はずと云ふにあり。)故に我が心が身體の動作の原因にもあらねば、また身體に於ける運動を以て我が心に於ける變化の原因とも見ること能はずと。之れを要するに、眞正の原因は限りある心及び限りある物以外に存せざる可からず。然らば何處にあるか、曰はく、之れを神に發見するの外なし。吾人が意志する時に身體の動くは眞實は神が我が身體を動かすによる、我が意志は唯だオッカジオ(occasio 又は causa occasionalis)即ち(別言すれば唯だ塲合)を爲すに過ぎず。即ち吾人が意志する塲合に吾人の身體は神によりて動かさるゝ也。吾人が身體上の變動も亦之れと同じく唯だ吾人の念ひを變化せしむる緣を爲すに過ぎず、即ち吾人の身體に一の、變動ある塲合に神が吾人の心に念ひを起こさしむる也。斯く心と身との相影響するが如くに見ゆるも一が決して他の變動の眞因たるには非ずして唯だオッカジオに外ならずと說く、是れ此の論のオッカジオ論と稱せらるゝ所以なり。