Page:Onishihakushizenshu04.djvu/122

提供:Wikisource
このページは校正済みです

《オッカジオ論の進步。》〔三〕されど若し以上の如く云はば、我が意志する每に神は其の力を用ゐて我が身を動かし、外物の刺激等によりて身體に變動の起こる每に神は其の力を用ゐて吾人の心に感覺等を起こさしむることとなるべく、恰も吾人の意志することに隨ひ又は物體の動くことに隨うて神は其の時每に煩はしく作爲するが如く見ゆ。故に此くの如き見解に滿足すること能はずしてオッカジオ論は更に進步したる形を取るに至れり。其の說に曰はく、吾人の意志する每に又物體の動く每に神が煩はしく其の力を用ゐるに非ず、又吾人の意志及び物體の變動が因となりて神を其の塲に作爲せしむるに非ず、神がもと吾人の心と身とを造りし時一方の變動が他と相應ずる樣に爲せるなり。之れを譬ふれば、恰も時計師が二個の時計を製造して其の一方の針の示す所と他方の針の示す所とが相應ずる樣に仕掛けたるが如く、一の時計の針が直ちに他の時計の針を動かすにもあらねば、又時計師が一の時計の針の動く每に之れに從うて他の時計の針を動かすにもあらずと。かく言ひ改めたるオッカジオ論は已にジューランクス自身の唱へ出でたる所と思はる。