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心及び物をも第二義の本體と名づけたり。されど嚴密に云へば、到底第一義第二義の區別を以て滿足すべからず。かく彼れは唯だ第二義といふ言譯を附せるのみにて正當には用ゐるべからざる本體てふ語を有限なる心及び物に應用して此の二者をも多少の獨立を有する者なるが如く言ひ做せる點に於いて其の思想の整はざる所あるのみならず、其の神を論ずるや彼れを無限なる心として心物の二つの中に就き神を其の一方に結び附けたることの十分の理由を與ふる能はず。又彼れは限界を取り去りて知性即ち心(natura intellectualis)を考ふれば神といふ觀念を得べく、神てふ觀念に限界を與へて考ふれば人間の心を得べしと云へり。されど何故に物體に就きても同樣のことを云ひ得ぬかに就きて十分の證明を與へず。

《デカルトの哲學に於ける不備の點、つづき。》〔一八〕更にデカルトの哲學に於いて修正を要する點は彼れが心物の關係を說ける所にあり。彼れに從へば、心と物とは全く其の本性を異にして一方を考ふるに他を以てする要なく從ひて一方に生じたる事柄の原因として他方を持ち來たること能はざるなり。廣がり念ひとは全く相容れざるものにして廣がりは念ひにあらず念ひは廣がりにあらず。故に念ひが何故に念ひならざる物體の運