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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/116

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證するなり。是れ正さしく論證を循環せる者には非じか。此の點に於いてデカルトの論は循環論證に陷れりとて非難せらる。されどエルドマンは彼れの爲めに辯じて曰はく、デカルトは循環論證の過誤を犯さず、彼れは知識上の根據(principium cognoscendi)と存在上の根據(principium essendi)とを區別せるなり。盖しデカルトの意、吾人が知る順序より云へば、先づ我れの存在を確め次ぎに我が明瞭に思考したる事の眞理なるを確め、而して之れを根據として神の存在を知るなり、されど存在上の根據より云へば、神は萬物の本原にして我れも神に依りて存在し我が理性も亦神によりて在りといふことを云へるなりと。エルドマンはかくの如く辯ずれども、デカルト自身が果たしてかほど明瞭に二者を區別せるかは疑はし。デカルト自らの言ひ表はし方に於いては循環論證の過誤を犯したる責を全くは免るゝ能はじと思はる。

尙ほデカルトの論に於いて思想の未だ整はざる點あるは本體といふ觀念の用方なり。彼れは本體を解してそを他に依らずして自ら存在するものなりと云へり。然らば正常に本體と云はるべきは神の外あるべからず。さるを彼れは限りある