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以爲へらく、明暸なる觀念に對しては意志は之れを承認せざるを得ず、不明瞭なる觀念に對して承認を與ふると與へざるとは其の自由なり。神に於いては彼れが眞理と認むる所是れ絕對に自由なる彼れの意志の定むる所也、されど人間に於いては其の意志は常に吾人の善しと見定めたる所に從ひて動く。故に神に於いては其の一切の活動は自由の意志を根據とすれども人間の意志は之れと同一義にて自由なりといふ能はず、但し尙ほ選擇の自由は十分に之れ有り。吾人は習慣によりて宜しきことをのみ選ぶに至るを得べし。而してかく練習によりて過誤を爲すこと無き狀態に達したる是れ最も高等なる自由なり。吾人の情緖も亦制御其の道を得ば却つて善事を爲す動機となる、而して吾人の意志は好みて德にかなひ德行を樂しむに至り得るなり。

《デカルトの哲學に於ける不備の點。》〔一七〕以上略〻デカルトの哲學を說明し了へぬ。吾人は彼れの學說の中に其の思想の未だ整はざる點あるを發見す、而して後の近世哲學の發達を了解せむには當さに彼れが所說中更に說き改むべく更に開發せらるべき點の存在することを見るべし。先づこゝに吾人の注意すべきはデカルトは根柢より全く哲學を改