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第三は吾人生得のもの(innatae)例へば「我」、「神」といふ觀念及び數學上の原理の如き是れなり。蓋しデカルトに於いて生得といふ語は二意義を有せり、一は讀みて字の如く生まれながら具ふと云ふ義、他は自明なるもの即ち直接に明瞭に且つ判然として他の證明を待たずと云ふ義、是れなり。此等の兩義は彼れに於いては相錯雜して在り。

デカルトはまた知識上に於ける價値の方面よりしては吾人の觀念を全きものadequatae)と全からざるものinadequatae)の二種に分かち、不明瞭なる觀念、混雜せる觀念は皆後者に屬すとなせり。

全からざる觀念その物をば直ちに知識上の誤謬即ち迷妄なりとは云ふべからず、迷妄ならむには判定の作用の加はるを要す。判定すとは承認し否認し、可とし不可とするの謂ひにしてこは即ち意志の作用なり。吾人もし明瞭なる觀念をのみ承認せば過誤の起こることなかるべけれど不明瞭なる觀念をも可として承認するが故に過誤に陷るを免れざる也。尙ほデカルトは吾人が意志の作用を以て自由なるものとせり。されど彼れに取りては意志の自由は一種の制限を有せり。