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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/110

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して全く新たに運動を造り出だすにはあらずと辯明したり。

《デカルトの心理說大要。》〔一五〕吾人の心は常に念ふことを爲す、何となれば心の本性は念ふと謂ふことにあり、而して其の本性の無き即ち念ひの無き心のある可からざれば也。而してデカルトは一切の個々の念ひを名づけて觀念ideae)と云へり。上に述べたる如く、吾人に於いては心と物とが相結ばり居るゆゑに觀念(言ひ更ふれば意識の內容)には只だ心そのものの純粹の作用に基づくものと心と身とが相結ばれるより起こるものとの二種あり。デカルトに從へば前者は能動actio)のものにして明瞭なる且つ判然たるもの也。後者は所動passio)のものにして不明瞭なる且つ混雜せるものなり。而して其の双方を各〻知と意との二つに分かつことを得。即ち意識の內容は一面より見れば能動、所動の二つに分かれ、他面より見れば知と意との二つより成る。能動の部分に於いて知に屬するは道理を辯ずる心なり、意に屬するは即ち通常意志と名づけらるゝものなり。所動の部分に於いて知に屬するは耳目口鼻等の感官によりて起こさるゝ感覺なり、意に屬するものは物欲及び情緖なり。而して想像の中、記憶は寧ろ所動の方に屬し、構成的想像は能動の方面に屬すとせ