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spiritus animalis)にしてこは物質中最も精微なる種類のものなり。動物精氣は血液が心臟に於ける熱氣によりて溫められ、頭腦に上り其處にて冷却され又濾されてかく精微なる部分となり分かれたるものにして神經に保たれて全身を廻ると。彼れは身體の動作の起こる所以を說きて曰はく、外物先づ神經の末端を刺激し其の刺激は腦に傅はり行く、其が腦に於いて動物精氣の集注する部分に傳はり行くこと恰も琴の絲に震動の傳はるが如し、而して動物精氣の運動は更に神經に運動を起こし、次いで其の神經と連續する筋肉の運動を起こし、是に於いて身體の動作は起こるなりと。斯くの如く生理上より見れば吾人の身體は全く機械的作動を爲すものに外ならず。然れども吾人は動物とは異なりて精神卽ち心を有す、即ち身體のかく動作するに伴うて意識を有するなり。

《身體の物質的運動と精神の意識作用とは腦の松果腺において觸接す。》〔一四〕精神即ち心の作用は物體の運動とは全く其の性質を異にするものなれど人類に於いては二者相觸接する所ありと考へらる、何となれば吾人は外物が吾が身體に與ふる刺激を感じ、また吾人の意志の作用を以て身體の運動を起こし得ればなり。此の故にデカルトは二者觸接の點、即ち一の動作が他の動作に通ず