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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/107

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む由なし。

《生氣と精神との區別、生體の動作の機械的說明。》〔一三〕生物學も生物の體軀を論ずるものとしては全く物理學に屬すべきもの、生體の動作生長等は皆機械的物理作用として之れを考ふるを得べし。デカルトは是に於いて身體の生氣と精神(心)とを全く區別して生氣は身體の物質的作用に外ならず、非物質なるは唯だ精神あるのみ、而して其の作用は意識に外ならずとせり。即ち彼れによりて身體の生命いのちと精神の作用とが明らかに全く區別せられたり(而してこは希臘哲學者に於いてはしかく區別されざりしもの、彼等は凡べて活動をなす所以のものを靈魂と見做したり)。デカルトに從へば、下等動物は一種の自動機械に外ならず、其の食物を見て之れに赴くも、また鞭たれて啼聲を擧ぐるも、意識ありて爲すにあらず、其の純然たる自動機械の作用たること恰も時計が針金はりがねを引くに應じて鳴るが如し。此の說は近世に於いて生體の動作を全く機械的に見むとする思考の先づ最も明瞭に言ひ表はされたるもの也。

デカルトは尙ほ人類に說き及ぼして曰はく、人類に於いても身體は一種の機械に外ならず、身體の生氣となりて其の作動を起こすに最も肝要なるものは動物精氣