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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/104

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り。約言すれば、物體の差別はそれが種々に區劃さるゝと其れが運動するとの二點に在り。

物體の運動は何處より來たる。曰はく、其の窮極の原因は神に求めざる可からず。然れども吾人は唯だ神が物體に運動を與へたることを知り得るのみ、物體の運動に於いて目的の存することを發見する能はず。物體を論ずるに當たりては唯だ其が動くものなりといふ點に於いてのみ之れを考ふべし、其が如何なる目的を以て動くかは物體の論に揷入すべからざる觀念なり。故に物理上の事は全く數理を以て物體の運動を硏究する事の外に出でず、換言すれば、機械的に考ふる外なし。物體を動かし物體を形づくれる神の目的を知るといふが如きは吾人の僭越に出づ。况んや人間を以て物界の目的となすが如きは僭越に添ふるに放慢の心を以てせるもの也。かくの如く論じてデカルトは物理の論より全く目的觀を排斥せり。

神は物體運動の原因にして且つ常住不變なる者也、而してかく原因不變易なるの故を以て物界の運動は其が全體の量に於いて常に變更すること無し。物體の運