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《デカルトの物理說、物界に於ける目的觀の排斥、運動の三法則。》〔一一〕上來論述せる所を基として特に物體に就きて論究せるもの是れデカルトの物理說なり。彼れ以爲へらく、廣袤といふ本性以外に物體其の物の具ふる性質なし。吾人が五官を以て感覺する諸性質(色、聲、香、味、觸、等)は物體其の物の具ふる所にあらずして吾人の心に感ずる主觀的のものなり。長さ、廣さ、厚さの外に物體そのものの性と謂ふべきものなし。此の故に吾人は全く數理的に物體を考ふるを要すと。盖しデカルトに取りては物體と廣袤とは同一不二にして彼れは廣袤ある所物體あらざる無しとし、隨ひて眞空の存在を否めり。若し一器物の內部が眞空にして何物も無からむには其の緣邊は相附著せざる可からず、其の相分かれて異別のものとなり居るは其の間に廣がれるものあれば也。廣がりのある是れ即ち廣がれるもの、物體の存するなり。

物體の物體たる所は廣袤といふことに在るが故に其の廣がれるといふことに於いては一切の物體皆平等一如のものたり、而して其の差別は唯だ種々の部分が種々に運動すと云ふことに存するのみ。故に吾人が一物體と名づけて他の物體と區別するは畢竟廣がれるものの一部分が他の部分と別異なる運動を爲すによれ