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Page:Onishihakushizenshu04.djvu/102

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ふ性によりて始めて心體の存在は知らるゝなり。物體の何なるかを問はば、廣がれるものといふ外なし、即ち廣がりといふ性によりて始めて物體の存在は知らるゝなり。此等の性はもとより實體に於けるもの、或は實體に屬するものとして始めて考へらるれど亦實體以外のものを假らずして考へらる。即ち意識は他のものを假らずして考へられ、廣袤はた他のものを假らずして其れ自身に考へらるゝ(per se concipiuntur)ものなり。故に委しくは之れを本性と名づくべし。性を以て、換言すれば性の取れる種々の樣として始めて考へられ得るもの之れを樣狀(又は單に modus)といふ。例へば物體の位置、形狀、動靜の如きは是れ廣袤の種々の樣狀にして廣袤なくしては考ふ可からざるもの也。また感情、慾望、意志といふが如きは是れ皆念ひの種々の樣狀にして念ひといふことに依らずしては考ふ可からざるもの也。即ち樣狀は其れ自身には考ふべからず、他に依りて始めて考へらる(per aliud concipiuntur)べきもの也。かくして近世哲學に於ける主要なる觀念即ち實體(又は單に)てふ觀念と共に(又は屬性)及び樣狀(又は單に)てふ觀念はデカルトによりて明らかに揭げ出だされたり。