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化ありとするは感官の倒見なり。五官の示す所のものは迷妄なり、眞理を示すものは吾人の理性のみと、斯くパルメニデースは截然理性と感官とを分別したり。さて此くの如く五官の示す萬物の變化差別を迷妄なりとし唯一不變の有をのみ眞實とするときは、哲學の考究はこゝに其の局を結びたりといふべきなれど彼れは流石に當時の學者が一般に其の心を注ぎたる萬物生起の論をも顧みざるを得ず、假に俗見に從うて森羅萬象を實在するものとせばその生起を如何に說明するが至當なるかと云ふことを論じたり。彼れが著作の詩は二篇に分かれたり。第一篇には平等一如の有のみありて變化雜多はすべて非有なりといふ眞理を述べ、第二篇には假りに俗見に從うて雜多變化を說明したる假說的物理論を述べたり。彼れが假說的物理論に曰はく、凡べての物皆明暗の二元より成り明は暖輕稀、暗は寒重濃なり。而して明は有にあたり暗は非有にあたる。明なる者と共に暗なるをも實に有りと思ふが故にこゝに雜多變化の世界を見る也これ倒見なり。二元の存する量は相同じ。萬物一として此の二元より成らざるはなし。明者多きほど有に近く、隨うて精神生氣饒く、暗者多きほど非有に近く隨うて活潑々の氣に