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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/98

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步せるは否むべきにあらず。しかも未だ之れを純理說とはいふべからず。その所謂有は未だ全く形而上のものにはあらで唯だ物體の不變平等の基本、即ち物の物たる所を指せる也。故に彼れが謂ふ有は空間を塞充する底のもの、唯だ物體より個々の差別性を悉皆抽象し去りて後に殘れる物基ともいふべきものに外ならず。アナクシマンドロスのト、アパイロンは未だ個々の物に分かれざるもの即ち無定限なるものを指し、パルメニデースの有は物體よりその差別相を除き去りたる平等一如のものを指す、而してその平等一如のところを何ぞと云ふに、空間を充たすことに外ならず。これ物體の物體たる所、これ即ち有なり。故にパルメニデースにありては空間に充實すと云ふ意味の實在するといふ意味のとが相合したりし也。實に在るものは空間にてる者、故に非有虛空は同一不二なり。約言すれば有は即ち充實(τὸ πλέον)非有は即ち虛空(τὸ χενόν)實即有、虛即無なり。虛空は無きものなるが故に實なるものの虛なる處へ移り動くといふことなく又は虛なる者の實と實との間に入りて之れを相分かつと云ふことなし。

《理性と感官との區別。》〔五〕此くの如く唯一平等の有のみを實有と知るは吾人の理性にして雜多變