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此の社の人々はその特殊なる宗敎的圑體の當時に容れられ其の感化の廣からむを欲して貴族社會と結托したりと。何れにしてもピタゴラス盟社は政治上貴族主義に賛同して一時クロトーンに小ならざる勢力を振ふこととなりしと共に當時益〻熾ならむとしたる民主思想と衝突して劇しき軋轢を生ずるに至りぬ。此の軋轢はピタゴラス在世の時に旣に始まりしならむと思はる、彼れが其の居をメタポンティオンに移したりしは恐らくはこれがためなりしならむ。その後反對の氣燄は益〻其の熟度を高めて遂に南部伊太利に於いては此の社の殆んど撲滅せらるゝに至れり。小亞細亞の沿岸なるイオニア種族の殖民地に比すれば南部伊太利には多數の希臘種族雜在し隨うて市府と市府との競爭、政社と政社との軋轢も亦一層酷しかりし也。且つ第六世紀の末つかたイオニアの諸市府が全力を擧げてペルシャの侵略に抵抗せし時は希臘の文化はむしろ南部伊太利に移りしが如き觀あり。

《ピタゴラスとピタゴラス哲學との關係。》〔四〕前言せる如く所謂ピタゴラス派の哲學は多くは後の學徒間に發達せしものにて其の中如何ほどピタゴラスみづからの說きしものあるかは明らかなら