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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/55

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なり)しかも直ちに希臘の哲學は埃及、波斯、印度等より輸入せられたるもの也と斷言するほどに確實なる歷史上の證左を見ず。或は右の說に反して、印度のニヤーヤ、サンクヒヤなどのひとへに宗敎的、神祕的ならずして學術的といはるべき哲學組織は希臘學術の影響の然らしめしところなりと論ずる學者もあり。これを要するに天文及び數學に關して希臘の學術がはじめ其の資料を埃及およびバビロニヤに仰ぎし所あるは事實ならめどそれだに純粹に數學といひ天文學といふきはのものにはあらざりしならむ。すなはち希臘人がこれら數學幷びに天文上の智識の幾分を他より得來たりたるは否むべからざる事實ならむも、そを組織統合して學術的智識となしゝ功績はこれを彼等の天才と勞力とに歸せざるべからず。希臘人が美術、文學、學術に驚くべき天才を有せりしは後世の嘆美する所也。

《希臘哲學生起の因由及び生起の地。》〔五〕希臘哲學の起こりしは西曆紀元前第六世紀の頃に當たれり。當時希臘人は制度風敎に、社會生活の狀態に著るき動搖進步をなしつゝありき。就中小亞細亞の西南岸及びアイガイア海の島嶼に殖民せしイオニア種族は希臘史の當初に於いて全希臘人の代表者として東方の人民に知られ且つ早くよりフェイニキア