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に在り、卽ち其等事物の通性として其の事物に存在する也。通性は又吾人の心の中に形づくる槪念としては多なる物の後(post multitudinem)に在り、卽ち多なる物を觀察したる後に吾人が心裡に想ひ浮かぶる者なりと。斯く通性を三樣に見ることは後にスコラ哲學に採用せられて實在論對唯名論の爭を決する一斷案となりき。

《哲學攷究の衰微と懷疑說。》〔五〕哲學はモハメット敎徒間に在りては一般に善受せられざりしを以て東方の該敎徒間に於いて其の攷究は漸次に衰へ行けり。かゝる時に當たりて屢〻出で來たるは哲學上の懷疑說にして而して之れを用ゐて單純なる宗敎上の信仰を保持せむとするは往々あるならひなるが此の時に於いて亦實にかくの如き現象の認めらるゝあり。哲學を以て依賴するに足らざるもの、到底確實なる知識に達する能はざるものと見て、經典の敎ふる所、宗門の定むる所に隨順することを唯一の安心立命の地とする傾向はアル、ガッヅァリ(Algazzali 一千五十九年―一千百十一年)によりて表せられたり。

《イブン、ロシッド、其の相素論等。》〔六〕モハメット敎國の東方に於いて哲學攷究の衰へたる頃恰も其の西方卽ち西班牙に於いて其の攷究の起これるあり。西班牙のアラビヤ學者中最も傑出し