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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/458

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出現せるを見る。是れより先き已に只管論理にのみ準據する辯證法に信用を措かずそれを以て吾人に眞實の知識を與ふるに足らざるもの、却りて宗敎上の實際に不利なる所あるものと考へたりし人々あり。或意味に於いて斯くの如き危險なる傾向は實にアベラルドス等推理を專らとせる辯證家の說く所に於いて特に明らかに認むることを得べし。辯證法によらず寧ろ他の道を取りて宗敎上の實驗を言ひ表はさむとしたる人々是れ所謂神祕家なり。理論を嫌へる神祕家クレールヺーのベルナール(Bernard 一〇九一―一一五三)の如きはアベラルドスを窘追して休まざりき。神祕家の中にても聖ヸクトル寺院のフーゴー(Hugo 一〇九六―一一四一)を頭とせる輩は只管理論を嫌ふことをせざりき。當時の神祕家中最も注目すべきは彼等なり。フーゴーは唱へて曰はく、宗敎上の事柄を會得せむには先づ信仰上の實驗の先きだてる者なかるべからず。道理に背戾するものは素より信仰すること能はざれど信仰上の事件は必ずしも悉く道理上考へ得べき事のみなりと言ふ可からず、其の一部分は能く道理を以て考へ得らるべきこと以上に在り。唯だ論理を以てする辯證法にのみ依らむとするは是れ宗敎上の事柄(信