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を以て人間を救はむとす、誰人の救はるゝかは是れ全く彼れの定むる所にして人間自力の聊かも關し得る所にあらず、換言すれば何人の救はるゝかは人間の自由に定むる能はざる所にして已に豫め神意によりて決定せられたるものなり(是れ謂はゆる豫定論なり)。

アウグスティーヌス以爲へらく、神は正義なるがゆゑに人間の罪を救はむには其の罪に對して賠贖のなさるゝを要す、而して基督は人間の爲めに此の賠贖を爲したる者なり。故に彼れの媒介に賴らずして救はるべきものは一人もなし而して敎會は基督の救濟の業を繼續するもの即ち彼れの代表者なり。故に地上に於いては敎會以外に救濟の道なしと。是に於いてアウグスティーヌスは羅馬敎會を盤石の安きに立て其の堅固なる組織によりて世界救濟の業を成就せむの企圖を描けり。

《アウグスティーヌスの思想の兩面、敎會と意識の實證。》〔一四〕アウグスティーヌスの思想には敎會を中心としたるものと吾人が意識の實證を基礎としたる者との兩面相纒綿せり。盖し彼れは一方に於いて吾人は唯だ敎會の規定する所を信ずるによりて救はるべしと考へたると共に又一方に