Page:Onishihakushizenshu03.djvu/407

提供:Wikisource
このページは校正済みです

はおもに猶太敎の思想を用ゐて基督敎の新敎義を形づくらむとしたりき。おもへらく、人類の祖アダムが罪惡を犯したるによりて人類は罪を犯す者となれり、是に於いて耶蘇基督此の世に降りて十字架上の苦痛を受け之れによりて人間の罪を贖ひ人間と天父との間に媒して人類を救ふと。是れ所謂パウロ神學の要旨なり。

ヨハネ福昔書の記者に於いても亦特殊の趣を帶びたる神學組織の發芽せるを見る。所謂ヨハネ神學の根本思想は已に希臘の哲學に現はれ又アレクサンドリアのフィローンの哲學に於いて主要なるものとなれるロゴスてふ觀念を持ち來たり、ロゴスと基督とを同一體ならしめ之れを以て神の子となすにあり。

第二世紀以降敎理の組織は次第に其の步を進め來たりしが其の組織を立つるに用ゐたる思想は主として之れを希臘哲學に取れり。何れが基督敎會の正統なる敎理にして何れが不正統なるかの區別の標準は基督に親炙したる使徒等によりて傅へられたる傳說にあり。然れども其の解釋は決して初めより一定せるにあらず而して主に希臘の思想を借り來たりて敎理的組織を與へ行く中に漸次に異