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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/406

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學者等が儀式と傳說とに拘泥したるを打破し宗敎の要は外形にあらずして唯だ眞心を以て天父に事ふるに在りとし而して其の身を以て凡べて罪ある者疲れたる者重きを負へる者の救濟に任じ我れ卽ち猶太國民の待望すべかりし救世主(メシヤ)なりと唱へたり。

元來基督の敎はかくの如く單純にして而して其の單純且つ新鮮なる所却つていたく時人の宗敎的渴望に應ずる所ありしなり。基督てふ人物を中心として一新宗敎的運動は創始せられ而して基督が當時に誤解せられて遂に磔刑に處せられたる後種々の障碍に遭ひながらも其の敎は漸次四方に弘まるに至れり。其の初めに當たりては基督に親灸せる弟子等が其の親しく聽きたる敎を傳へて別に組織立ちたる敎理を造る必要を感ぜざりしが其の敎の漸次諸方に弘まりて諸種の異敎と相觸るゝに從うて漸次に解釋すべき種々なる問題を生じ來たり又此の新宗敎を信仰する者の奉ずべき宗旨の何たるかを明らかに定むる必要を感じ來たれり。是れ敎理組織の起こりし所以なり。

《パウロ、ヨハネの神學の要旨、敎父時代の二期。》〔三〕敎理組織は使徒パウロに於いて已に其の萌芽を發せるを見る。パウロ