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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/373

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二句に約せる者あり、曰はく、若し確實なる知識あらばそは直接に確實なるか將た間接に確實なるかの一なるべし、然るに吾人の觀念は凡べて關係的なるが故に直接に知識の確實なることを知るべからず、また第二の間接に確實なる知識は直接に確實なる知識を前提とせざるべからざるが故に是れ亦遂に成立すること能はずと。

セクストス、エムピリコス(西紀後二百年頃の人)は病理上疾病の原因を論ずること能はずとし唯だ治療上の經驗にのみ依賴せざるべからずと唱ふる一派の醫家なり。彼れ亦獨斷的哲學者を駁擊する書を遺しき。懷疑說は當時此等の經驗派と稱せらるゝ醫家の間に行はれたりきと考へらる而して因果といふ觀念に批評を試みて其が困難の點を指摘することも多少彼等の成したる所ならむと考へらる。


折衷說

《折衷的傾向の勃興。》〔十〕右述ぶる懷疑的傾向の外に紀元前第一世紀頃には折衷的傾向の頭を擡げ來たれるあり。プラトーン、アリストテレース、ストア、エピクーロスの四大學派