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が各〻其の中心を亞典府に(一はアカデマイアに、一はリュイカイオンに、一はストアに、一はエピクーロスの庭園に)有して紀元前三世紀及び二世紀頃には烈しく軋轢したりしが、其の結果として他と相調和する傾向を生じ來たれるは自然なり。ストア派に在りてはパナイティオス及びポシドニオスに於いて此の折衷的傾向を生じてプラトーン學派及び殊にアリストテレース學派の說を加味するに至れることは上に述べし所なり。ペリパテーティク學派に於いても亦ストア學派の萬有神說と調和せむとする傾向を生ぜるを見る。ただ此の如き折衷的傾向に緣なかりしはエピクーロス學派なり。又その傾向の最も盛んなりしはプラトーン學派なり。フィローン及びアンティオコス出でて新アカデミーの懷疑說より離れて折衷說に移れるは已に說けるが如し。アンティオコスの如きはプラトーン哲學とアリストテレース哲學は畢竟同一の主意を異なる言ひ方に表はしたるものに外ならずとまで唱ふるに至りき。

《羅馬學者の實際的傾向。》〔十一〕希臘學術の始めて羅馬に入りたる當時に於いては守舊家は之れを見て羅馬の國風を紊るものと爲し西紀前百六十一年には當時の有司が哲學者及び