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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/372

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爲を止むること能はざる時は唯だ世間在來の習慣と各人が其の時の感想欲望に從ひて行ふべしと。アイネジデーモス在世の時代は明らかならざれども畧〻西紀前一世紀の半ごろと見て可ならむ、所謂ピルローンの十句義(τρόποι)は彼れの揭げし所なるが如し。十句義は懷疑派が主唱の要點を十ケ條に云ひ現はせるもの、然れども其の類別と順序とは亂雜に失したり。而して其の要旨は既に大抵ピルローン乃至カルネアデースの所說に在りしものなるが如し。其の主意とする所は畢竟ずるに吾人の感官を以て知覺する所は關係的のものなるが故に吾人は事物の實相を知ること能はずといふに歸す。

アグリッパ(其の時代を明らかにせず)はアイネジデーモスの十句義を五句に約めたり。其の主意は三點に歸著す、一、人々の意見の相異なること、二、吾人の知覺の關係的なること、三、論證の出來ざること是れなり。論證の出來ざる所以を說いて曰はく、論旨の前提を證するには尙ほそれが論據となすべき前提を要して遂に限りなく前提を要するか、將た其の斷案を以てそが前提となす循環の論となるか、將た證明せられざる前提を以て出立するかの外なければなりと。尙ほ後には此の五句をも