Page:Onishihakushizenshu03.djvu/356

提供:Wikisource
このページは校正済みです

にして眼前の歡樂を主眼としたれども其の快樂說を生涯の主義として揭ぐる時には已にアリスティッポスに見えたる如く多少快樂の選擇を說かざるべからず、其の學派の後に至るに從ひてます思慮を用ゐて快樂苦痛を比較選擇する必要を感じ遂には轉じて厭世的傾向を帶ぶるに至れりき。而してエピクーロスの說く所は熟盧靜思して吾人が生涯の幸福(快樂といふ意味にて)を得るを目的とせよといふにありて古代の快樂說中最も磨き上げたる學說なり。彼れが學說の全く實用的なることはストア學派にも優れり。エピクーロス學徒は哲學を以て唯だ個人が各〻樂しき生涯を遂ぐる所以の方便を見出だすものとのみしたり。即ち哲學は彼等に於いて遂に處世の方便に過ぎざるものとなれり。

《其の唯物的元子論。》〔三〕かくの如くエピクーロスは天地萬象の究理の學を以てそれ自身には價値なきものとしたりしが、この世には安樂なる生活を爲す妨げとなるべき多くの妄想迷信ありて吾人はこれが爲めに無益なる煩悶苦痛をなし失望し失敗すること多きが故に物理の學は此等の妄想を驅逐する益ありと考へたり。彼れは自家の意見に合ふ物理說をデーモクリトスが元子論に發見せり。以爲へらく、物理上