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に在りて敎授を始め其の庭園に同志を集めて其の學派を開けり。其の人物温厚にして深く人に愛敬せられたり。彼れの說きし哲學は實用を專らとし常人に解し易く學術上多くの修練なき者も其の學派に入るを得しかば集まり來たるもの夥しく其の勢頗る盛んなりき。婦女子も亦其の圑體に入れり。彼れ紀元前二百七十年に逝りぬ。著述せし所頗る多かりしが其の今日に存する者甚だ少なし。エピクーロス學派は大にストア學派と異なりて其の哲學の組織は已に其の學祖に於いて完備し、學徒は專ら之れを傅ふるに止まり其の學說の彼等によりて變更され發達せしめられたる所なかりき。

此の學派の人々の中有名なる者を擧ぐればエピクーロスの親友なるメトロドーロス、又降りては有名なる羅馬の詩人ルークレシウス(紀元前七十年頃の人)等なり。ルークレシウスは其の有名なる述學の詩にエピクーロス學派の世界觀を解說せり。此の學派も紀元後三百年頃迄繼續したりき。

《エピクーロスの快樂說。》〔二〕ストア學派がキニク學派の脈を引けるが如くエピクーロス學派はキレーネ學派に得たる所あり。キレーネ學派の最初の說はをさなき粗笨なる快樂說