Page:Onishihakushizenshu03.djvu/351

提供:Wikisource
このページは校正済みです

なる事業がストア學派の哲學的道德說に現はれたりと謂ふべし。

《ストア道德論の常識化。》〔一二〕前にも云へる如くストア學說の廣く行はれまた其の學徒が其の所說を廣く世人に服膺せしめむとするに從ひて其の學說殊に道德論の圭角を去るの必要を感じたり。彼等は先づ無記の物の論に於いて多少假借する所ある事となり無記の物をば狹義に所謂無記のものと或條件の下に於いては多少價値を置きて然るべきものとの二つに分かち、例へば健康、位地、名譽の如きは道德を害せざる限りそを求むべき多少の價ある者と見るに至れり。またストア學派の理想的人間即ち聖賢の不動心を說くや初めは外界の變動の爲めに全く喜怒哀樂の情を動かさざる者の如く極めて嚴かに說きたれども其の實際に通じ難きより聖賢と雖も多少外物の變動によりて其の情の動かざるにはあらず唯だ其の情に任せずして直ちに之れを制御する自在力ある所即ち聖賢の特色なりと說くに至れり。且つ此の派の學徒は初めは其の理想とせる聖賢の實際世間に存する事を確認し例へばソークラテース、アンティステネース、ディオゲネースの如きは即ち其の人なりとし又各人勉めて止まずんば何人も遂にかゝる聖賢の地位に達するを得る者な