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ーンの知識論とは全く其の趣を異にして一種の感覺說と稱すべきものなるを。尙ほ曰はく、かくの如く知識は感覺に始まり、感官を以て知覺したることが後に遺りて記憶となり、記憶積みて經驗となる、而して經驗を基として推論するに至りて始めて遍通的觀念は成る。而して件の觀念の組織的に立せられざるは通俗の知識にして、其の組織的に造り上げられたるは即ち學識なり。斯くの如く吾人が諸〻の事物を經驗することに依りて造り上げらるゝ遍通的觀念の中凡べての人の必然に具有し且つ一致する觀念あり。此等の觀念は各人が擅まに造りて自他の間に一致を期すべからざる觀念とは異なる本然の槪念なりと。而して或ストア學者は此等の槪念をば吾人の知識殊に道德の上に於ける動かすべからざる根據と見たり。此くの如くストア學徒に從へば吾人の知識は外物より受くる印象によりて成り而して主觀に存する方面に於いては知識は畢竟吾人の觀念の造る所に外ならず。然らばその觀念の眞なるか妄なるかは何によりて定むべき。曰はく眞なる觀念とは其の對境即ち客觀の事物に合せるものをいふ。然らば觀念がその對境に合へるか否かは何によりて知るべき、換言すれば眞理の窮極の標準は何