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が穿鑿の法を簡易にせざるべからずと考へてアリストテレースは一は吾人の直接に知覺する個々事相、一は世に一般に又は有識者間に承認されたる意見(ἔν δόξα)を採り來たりこれを精細に比較し推考するを要すとせり(ソークラテースの實際爲したる所は即ち是れなり)。斯くの如く全然正確なりとは謂ふべからずとも正確に近き種々の意見を出立點として推考するをアリストテレースはディアレクティケーと名づけたり。然れども斯くして得たる所は竟に絕待に確實なりと云ふべからず。之れをして絕待に確實なるものたらしめむには竟に理性の直觀に待たざる可からず。盖し究極の原理は理性(νοῦς)の認むる所、此の原理よりして必然に論證したるもの是れ學理的說明(ἐπιστήμη)の範圍、必然ならざることに關するもの是れ俗說(δόξα)なり。說いて此處に至ればアリストテレースの論理學は之れを其の知識論及び純理哲學上の思想と相結ぶにあらずば了解すべからざるものたるを見る也。

《定義、分類法。》〔一〇〕歸納的硏究の結果として吾人は一種類の事物に其が定義ορισμός)を下し得るに至る、盖し定義は該事物の槪念(λόγος)即ち其の事物をしかあらしむる所以