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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/291

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μέσος)を以て他の二語にて表はす槪念相互の間に一が他に從屬の閼係あるかなきかを認むるものなり。而して媒語の位置によりてシルロギスモスに三種の形(σχήματα)を生ず、而して其の第一の形を以て本形となす。〈媒語が一前提の主語、他前提の客語の位置に在るを第一形、媒語が兩前提の客語たるを第二形、兩前提の主語たるを第三形とす。〉

《歸納法、ディアレクティケー。》〔九〕凡そ論證は前提を根據として或立言を演繹するものなれば論理上は其の立言に先だちて其の前提の承認さるゝを要す、而して究極の前提は吾人の直接に承認するもの(άμεσα)ならざる可からず。其等究極前提即ち原理は論證すべからざるものなれども亦吾人がこれを發見し經驗上これを確かむるには個々の事例の詮索に待たざるべからず。而も經驗は其等原理を示すものにしてそを說明する所以のものにあらず、即ち原理は論理上は先きに來たるべきものなれども心理上吾人がそを想ひ浮かべ來たる順序より云へば個々の事件の經驗を先だてざるべからず。斯くして經驗上の事柄よりして原理を發見しこれを確かむる道これ即ちアリストテレースの所謂歸納法(ἐπαγωγή)なり。歸納的穿鑿を爲すに當たり一切の事件を遺す所なく眼界の中に入れむは實際爲し能ふべきことならねば其