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リュイカイオンには並樹を以て蔽ひたる路 περίπατος あり其處にアリストテレースは篤志の門弟をつどへて步みながら學理を談じたりしより彼れの學派はペリパテーティクてふ名稱を受くるに至れり。〈此の名稱の起原に就いては異說あり或は云ふアリストテレースが步みながら弟子を敎へたるに起因せりと或は曰ふ件の並樹ある散步に適したる路よりして其の名を得たりと。〉アリストテレースは自ら財產を有せりしが上にマケドニアの朝廷の補助を得て大いに學術硏究の便益を與へられ多くの書籍を集め又殊に自然科學の方面に於いて數多の材料を蒐集する道を得たりしが如し。其の後彼れが其の甥カルリステネースの事に關してアレクサンドロスに對する交情の冷えたりしは疑ふを要せざる事實ならむ。但し彼れのアレクサンドロスに對する關係に就きては古來幾多の傳說あれど、そはおほむね後のアリストテレース學派の論敵が捏造したる者に外ならじ。アレクサンドロスの死後彼れは其のマケドニアの朝廷に親密なりし故を以て政治上の憎怨より(表面上は敬神の道を缺けりとて)訴へられしかば亞典府を遁れてカルキスに至り三百三十二年少しくデモステネースの死するに先だちてこゝに歿せり。彼れが著述等によりて案ずるに其の性行の氣高かりしことは疑ふを要せず其の博識と獨創の才と