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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/280

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下にありし時、已に嶄然頭角を現はし光彩ある文を以てものせる著作に名を得て殆んど一方の旗頭たるの位地を取り、修辭辯舌法を說きてはイソクラテースの壘を摩せり。プラトーンの死後クセノクラーテスと共に亞典府を去り同門の學友なりしアタルノイスの主權者へルミアスの許に行き、ヘルミアス、ペルシヤ人の詭計に陷りて亡びし後其の緣者ピュイティアスを娶り、ミュイティレーネーに移れり。《*》*(此の間の事定かならず。)三百四十二年マケドニア王フィリップに召されて當時十三歲なりし太子アレクサンドロスの師傅となれり。其の後三百三十四年(又は其の前年)アリストテレースは其の學友にして後に其の學派の有用の才となりしテオフラストスと共に亞典府に來たり自ら學校を府の東方の廓外なるリュイカイオン Λύκειον といふギムナジオンに開き、其の獎勵したる學術硏究の範圍の廣きこと及び其の秩序あることに於いて其の勢力はをさアカデミーをも凌駕せむ程に至れり。彼れが其の門下に集まり來たれる同志の輩を導くや彼等をして共に俱に材料を聚め各〻獨立の硏究に從事せしめて彼れ其の全體を監督せりしが如し。彼れが組織せる學說の廣大なりしことも一はかゝる敎導の結果なりけむと考へらる。