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究の步武を進めたるは其の師の學說中最も薄弱なる物理說の方面に在り。プラトーンが哲學の精神とも云ふべきイデア論及び倫理說は古アカデミーの學者によりて更に開發せられたる所なく、寧ろ彼等の著眼點は主として自然界の說明にありしなり。

《主なる門人。》〔三三〕プラトーンの死せしや其の遺言によりてアカデミーの首座を占めたりしは其の甥スポイシッポス(Σπεύσιππος)なり。スポイシッポスのアカデミーに長たるや同門なるクセノクラテース(Ξενοκράτης)及びアリストテレース相携へて亞典府を去れり。其の後クセノクラテースがスポイシッポスにつぎてアカデミーの首領となるや(時に三百九十九年)同じくプラトーンの門下なるヘーラクライデース(Ἡρακλείδης)は亞典を去り其の故鄕ポントスに歸りて自ら學校を設立せり。

《プラトーン門下の分裂。》〔三四〕プラトーンの死後其の主なる弟子の去就を以ても窺ひ得る如く其の門下に多少の分裂を生じたりしが如し。アリストテレースは後遂に別に一大學派を開くに至れり。尙ほプラトーンの學統を引ける古アカデミーの學者は上に云へる如く自然哲學の講究を以て其の思索の主要の部分となせりしが、これに關し