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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/257

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する所以を說き得べしや。全く此の方面を持ち來たらずしてはイデアの去來といふことも遂に無意義なるものとならむ。對話篇『ソフィスト』に於いては實際此の問題を提起してイデアを動力的原因と見ざる可からざることをほのめかしあり,即ちこゝにイデアを實體(ὄντως ὄν)と見るのみならず其の實體を動カあるもの(δύναμις)と見ざるべからずといふ論の緖を開きあるなり(但しこれはプラトーン自家の思想を表出せるものなるか否かに就いては史家其の意見を異にす)。

かくの如くプラトーンのイデア論は現象界を說くに及びて多くの困難に逢ふことを免れず。若し此の現象界を以て實在するものにあらずとし其の恰も實在するが如く見ゆるは吾人が感官の見樣の不完全なるによるとせば一應プラトーンの說に於ける困難を取り除き得るが如く思はる。而してプラトーンはまさしく現象界を以て全く吾人の主觀に存する現象に外ならずと視たりと說く哲學史家もなきにあらず、プラトーンが語のかゝる意味に解せらるゝふしもなきにはあらず、又彼れがプロータゴラスの知識論を生滅界の域內に許容せるを見ればデーモクリトスが同じくプロータゴラスの思想を用ゐて物體の感官的性質の主觀的說明