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ーンは其の目的觀を持しかゝる眼孔を以て一切の物を見たり。一切の物の在るは皆その各〻に在るによろしき所あればなり、而して各〻に於いて善き所あるは全體に於いて善き所の在るありて之れに統括せらるればなり、即ち個々の目的は全體の目的によりて定めらる。此の故に全體の究極原因としてそをしかあらしむるものはといふことなり。斯くの如くプラトーンはソークラテースが專ら人事の硏究に用ゐたりし思想を打ち擴げて宇宙全體に及ぼせるによりソークラテースの目的論は彼れに至りて形而上學としての目的論となり前者の求めたる善といふものが全實在の究極とせられたるなり。

斯くしてイデアの上下の關係は論理的なるよりも寧ろ目的上の關係となりぬ。而して事物存在の眞因は其が極致理想たる目的に在りとせらる。通常所謂事物の生因(形體に現はれたる個々物間の生起上の關係)は寧ろ其が生起の緣たり、手續たるに過ぎず。是に於いて古來理想論の一大模型と見らるゝプラトーンの哲學は成り上がれり。

《イデアは何故に個々物に現ずるか、有と非有と。》〔十五〕こゝに問ふべきはイデアが何故に個々物界に覺束なく其の痕跡を宿