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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/252

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其の相を現はすなり。されど其れが個々物の上に現ずるや唯だ一時そが覺束なき影を宿せるのみ、圓滿に其が眞相を宿すこと能はざるを以て個々物は常に變化流轉の中に漂ふなりと。是に於いてか吾人は曾てアナクサゴーラスにほの見えたる目的說がプラトーンに於いて最もよく其の形を成せるを見る也。

かく眞實存在するものはなるものに外ならずといふ論據よりプラトーンはイデア組織の頂上にと云ふイデアを置きて之れを神明とも名づけたり。又これを萬象を顯照する太陽に譬へたり。プラトーンが此くの如く善てふイデアをイデア界の頂上に置き之れを以て萬象の究極原因となせるは之れをソークラテースの思想に結び附くれば其の由來更に明らかなるべし。ソークラテースが事物を觀察するや專ら道德論の立塲にありてしたるが故に其の著眼の點はおのづから其の事物をしかあらしむる所以の職分に在りき。以爲へらく、畫工の畫工たる所は能く畫くことに在り、治者の治者たる所は能く民を治むるに在り、之れと等しく手足の手足たり、眼耳の眼耳たる所は皆それぞれの職分を盡くす所に在りと。かゝる見漾みやうを一切の有機界に押し擴げむは難きことにあらず、而して實にプラト