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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/231

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頃には亞典に歸りて府の郊外に在りしアカデーマイア(Ἀκαδήμεια)といふギムナジオンに一の學會を設け同志を糾合して哲學の講究に從事せしが彼れが名聲の盛んなるに從ひて敎を請ふもの續々として集まり來たれり。

シラクウサの老ディオニシオス死し其の子少ディオニシオス位を踐むやプラトーンは其の友ディオーン(少ディオニシオスの叔父)の慫慂に從ひ其の國政を補佐せむと欲して再びシヽリーに行けり。彼れのシラクウサに行けるや己が政治上の理想を實行せむの企圖を懷けりしが事其の志と違ひて亞典に歸れり。其の後三百六十一年ディオーンとディオニシオスの間を調停せむが爲め復たシヽリーの地を踏みしが政事上の關係よりして甚だしき危險の位置に陷りたりしを當時アルキタスを首領としてタラスに霸威を振へるピタゴラス學徒の强硬なる干涉によりて漸く免るゝを得たりきと思はる。次いで亞典に歸りし後はまた他事を顧みず專心子弟の敎育に從事し三百四十七年八十歲の高齡を以て時人敬慕の間に逝けり。碩學として思想性行の高雅なる實に希臘學術界の花といふべし。彼れの幽玄なる思想が後世に及ぼせる影響のいかばかり偉大なるかは西洋哲學史を講じゆく